二 昔の村の暮らし


 飢きんと食べもの

 昔は、お米をとる農家でも、どうしたらお米を長く食いのばすことができるのか、常に考えていろいろと
工夫しました。
特に山のなかの農家は、たんぼが少いので、毎日食べるめしはすべてお米に麦やアワなどを混ぜ、白いめし
を食べるのは、お盆、正月、お祭の日だけでした。

 また、昔は天気が不順のときなどは、よく飢きんが起こりました。
食べる物がなくて、たくさんの人たちが飢えて死にました。
この南信濃村でも、享保元年(一七一六年)から十八年にかけては、冷害や大雨などのため穀物がとれず、
八百余人もの飢えた人が出たそうです。
いまのように物が豊かな時代では、とても考えられないことですが、ほんとにあったことなのです。

 このようなにがい思いをした人びとが考えて作ったのが、災害に備えて穀物をたくわえておく郷倉とい
うものです。
旧木沢村では、天明八年から寛政九年までの十年間にわたって麦をたくわえ、天保七年の大飢きんのとき
この麦を分けて食べたそうです。

 この郷倉は大勢の人たちが共同で穀物をたくわえますが、農家でも飢きんにそなえて「備考食」というも
のが考え出され、災害に備えました。
この食べ物は、わらび、くず、とち、どんぐりの実、ところ、やまいも、りょうぶな、ぜんまいなど、たく
さんの種類があります。
そしてその食べ物には、食用にするために、昔の人のすばらしい工夫がこらされております。

 

  いろり

 昔は、どこの家にもいろりがありました。
ここが一家団らんの場所で、いろりをかこんで食事をしたり、夜なべの仕事をしました。
また子どもたちは、テレビもラジオもないので、親たちから昔ばなしを聞くのを楽しみにしておりました。
そして学校の勉強も、このいろりのそばでしました。

 いろりは木をくべて、大きな火を焚きますから、けむりも立つしほこりも出ます。
また、火にくべた薪がはぜて、たたみをこがすこともあるし、天井はすすでまっ黒になりました。
こういう欠点もありますが、一方いろりというものは大変便利なものです。

 大きなほだをくべておくと、一日中火がとろりとろりと燃えています。
鉄びんを自在かぎにかけておくと、いつもチンチンとお湯がわいています。
山から栗を拾ってきて、皮をむいていろりの熱い灰に埋めておくと、おいしい焼き栗ができます。
馬鈴薯(じゃがいも)や、さつまいももこの灰のなかで、きれいに焼けています。
いろりのすみには、テッキというものを置いてあります。これは鉄でこしらえてありますが、物を焼くとき
とても便
利なものです。おもちでも魚でも、いろりの火でかんたんに焼けます。
 いろりは食べ物を煮たり焼いたりするところですから、昔の親たちはこのいろりをとても大切にしており
ました。子どもがつばなどはくと、
「ここには荒神さまがおいでになるで、ばちがあたる。」といって子どもたちに教えました。

 

 昔の主食

昔は白い米のめしを食べるのは、前にも書きましたが、定められた日だけでした。
あとは「かてめし」といって、毎日麦とかアワを混ぜたごはんです。
おもちの場合も「かてもち」といって、少しのもち米に、アワ、コキビ、ヨモギの芽などを一緒について、
おもちをつくりました。

さて「かてめし」について、もうすこしくわしくお話してみましょう。
遠山では、麦を混ぜるのが普通で、そのわり合いは米三合に麦七合といわれておりました。
そしてその麦も、いまのような白い押し麦ではなく、くるまや(水車)でついたものを、前の晩よく煮て
やわらかにします。
このことを遠山では、麦をエマスと言いました。
このエマした麦をお米のなかに入れて、一日の主食としました。
またときには、アワ、コキビ、大根などを
混ぜて食べることもありました。

 いまはお米が余って、政府でも制限しておりますが、たんぼの少い地方では、お米は何より大切なもの
でした。

遠山の人たちが食べるお米は、小川路峠を越えて、馬の背なかで運ばれてきました。
ですから、麦をどうしても多くつくり、米の節約をしなければなりませんでした。

 ついでに「すくいめし」というお話をしてみます。
「すくいめし」というのは、朝ごはんが炊けたときに、なるべくお米のあるところをしゃくしですくいと
ることを言います。
少しでもお米の多いところを幼い子どもたちに食べさせたい、そんなおかあさんの優しい心が、「すくいめし」
にはこめられていました。
 たった三合のお米のなかで「すくいめし」をすると、あとに残ったものはほとんど麦だけです。
こんなまっ黒いごはんを食べて、親たちは一生けんめい働いたのです。

 昔の食事は大変貧しいものでした。
そのかわり、一日に四回くらい食べました。
そうしないとからだが持たなかったのです。
そのほか粉でつくった「だんご」とか、「やきもち」も食べました。

 どこの家にも石うすがあって、夜になると腰のまがったおばあさんや、昼の野良仕事で疲れたお母さんたちが
石うすをゴロゴロと引きます。
これは女の人たちの大切な仕事でした。
 この粉を加工した食べ物から、いろいろのものが作りだされました。
学者の人たちは、これらの食べ物を「いろり文化が作った貴重なもの」として、高く評価をしております。
そのなかからいくつか、遠山らしい食べ物について書いてみます。

 

  粉をつかった食べ物

 やきもちは、小麦、そば、こきび、たかきび、ひえなどの粉をつかいましたが、そのなかで珍らしいものとして、
学者たちは遠山のそばのやきもちを挙げています。
 そばのやきもちは、どこの山村でもつくりましたが、塩さんまをアンコに使ったものは、ほかには見られないと
言っています。
このやきもちは、秋から冬にかけて作りましたが、栄養と味のことをよく考えた貴重なものとされています。

 それからクズの根からとった「ノロミやきもち」も、珍らしいものの一つです。
クズのことは、遠山ではクズ葉と言います。
うさぎの好物で、至るところにある草ですから、みなさんもよく知っていると思います。
 この根の大きくなったものからでんぷんがとれますが、大変おいしいものです。
秋から冬にかけてこの根を掘ってきて、石の上でよくたたき、やわらかにします。
これを大きないれものに入れ、水のなかでよくもむと、底の方にでん
ぷんがたまります。
これをいく度もこして、あくをぬくとだんだん白くなってきます。
このでんぷんは、上の方が少し黒味がかって、下の方は白くなっています。
この黒味がかったところを「ノロミ」と言い、白いのを「ハナ」と呼びます。
ハナは上等なところで、病人に食べさせたりお金にしたりします。
ノロミはおもちのように切って、いろりの熱い灰で焼き、みそとかしょう油、ヌタ(みそのたれ)などをつけて
食べます。ほくほくして大変おいしいものです。

それからくしいも(いもでんがく)も、おいしいものです。
これはいまでも作りますが、くしいものほんとうのおいしさは、いろりの火でじっくり焼いたものにはかない
ません。こんがりと焼いたくしいもと香ばしいみそのかおり、それはまさにおかあさんの味です。
タレにするみそは、くるみ、ゆず、さんしょの芽、ねぎなど加え、すり鉢でよくすり、たっぷりとつけます。
いもはおもに馬鈴薯をつかいますが、さといも(ほいも)のくしいももまた変わった味でおいしいものです。

タテ粉も遠山の味だと言われています。
これは小豆をいりなべでいって、石うすでひき、「ふるい」でよくふるって細い粉にしたものです。
めし茶碗に粉を入れ、熱湯でよくかきまわすとタテ粉になります。
味つけはおさとうが一番おいしいが、昔はどこの家でも塩と柿の皮で味をつけて食べたものです。

いくつか遠山らしい昔の食べ物について書いてみました。
食べ物というものは、人間のいのちを保つ最も大切なものです。
いまのようにお金さえ出せば、どんなうまいものも何時でも手に入りますが、いったん戦争でもはじまったら、
外国の輸入食糧に頼っている日本はどうなることでしょうか。
 昔の親たちは、ごはん粒を一つでもこぼすと、「神さまのばちが当たる」と言って子どもたちをしかりました。
その言葉を、みなさんもときには考えてみて下さい。


 暮らしの中心 山と川